令和2年の梅雨前線は例年よりも東西に長く、九州に長期間停滞していました。そこに南西からの暖かく湿った空気が流れ込み続け、複数の線状降水帯が前線に沿うように熊本県南部の上空に一列に並んで発生したのです。7月4日未明の球磨川は刻一刻と激しさを増し、溢れんばかりに増水していました。
午前4時50分:気象庁が大雨特別警報発令
午前5時15分:人吉市が市内全域に避難指示発令
各町内の防災無線からは「すぐに非難してください」「命を守る行動を」と市長の叫びが響いていました。
この頃、私は低い地下タンクに入っている原酒をいくらか高いタンクにポンプで移動してこれを救出する作業をしていました。
午前7時半頃:発災
地下タンクの原酒を救出し終わってほっとしたところに、突然、製造場の木戸を蹴破って津波のように水が押し寄せてきました。球磨川の濁流が堤防を乗り越え、800m離れた私の蔵に襲いかかって来たのです。それからわずか数秒、麹室の中に濁流が流れ込んでいくのを見ながらも、蔵を離れ、道向かいの自宅に避難しました。2階ベランダから茶色い水に飲み込まれていく蔵を呆然と眺めるほかありませんでした。水位はどんどん上がってきます。ガシャンバリバリ。重い冷蔵庫が浮いて壁を突き破り、テレビが倒れ、浮いたソファが窓ガラスを割る恐ろしい音が響きました。水は階段を一段またいちだんと上がってきます。
午前8時半:命の危険
球磨川上流の市房ダムが耐え切れず緊急放流するとの情報が入ってきました。二階も危ない。どうやって生き延びよう。妻の着物の帯を何本も結びつないで「命綱」を作り、息子のバスケットボール4個をゴミ袋に入れて「救命具」を作って、必死でした。ダムの放流は何とか回避されましたが命の危険を感じた数時間でした。実際この時、同じ町内の方が4名亡くなられています。
午前9時半頃:水位は最も上昇
自宅ベランダから蔵の1階部分が完全に飲み込まれていく様子を呆然と眺めるしかありませんでした。敷地の奥の10KLタンクは道まで押し流され、所有するすべての車(家族のものを含めて7台)は屋根が完全に見えなくなるほど水没しました。
午後:徐々に水位は下がりました
自宅1階は家具が倒れて泥まみれ。散乱して足の踏み場もありません。子供の成長を撮った写真もビデオも、思い出の詰まった調度品もすべてダメになってしまいました。
蔵の製造場の方では、床は泥だらけ、タンクは浮き上がって横転、あるいは泥水をかぶって水没。屋根の一部がタンクが浮き上がった衝撃で壊れていました。梁の上には一升瓶や桶などが引っかかっています。製造場での浸水は3mに達していたようです。
明治以来使われてきた石造りの麹室も天井の1m上まで水没。断熱材として側面や天井上に詰めてあった籾殻が泥水とともにそこら中にまき散らされていました。石で囲まれた麹室内部も全滅。蔵の個性を決める微生物が台無しになりました。
思いを込めて造った原酒も大半が流れてしまいました。40年物の焼酎も、新たにチャレンジして造った焼酎もみんな流れてしまいました。瓶詰ラインも、ボイラーも、フォークリフトもポンプも資材も何もかも泥をかぶって使用不能。
もう一度ここで焼酎が造れるとは到底考えられない状況。「会社の再興なんてできるはずがない」そんな絶望的な気持ちでした。